書道の臨書とは何か、意味と歴史を解説


臨書とは一般に「先人の名跡をよく見て習うこと」と考えられています。
技法に習熟するための行為ととらえられがちですが、その中には鑑賞という重要な側面があります。
当然のことながら習うことは見ることと一体的に行われるわけです。

先人の名跡は通常「古典」と呼び慣わされます。
古典とは、同時代において上手な書と評されるだけでは古典と位置づけることはできません。
長い時間の流れの中で、あらゆる価値観による判断を経て今日に伝わるものこそが古典なのです。

では、昔の名人の筆跡だけが臨書の対象なのでしょうか。
例えば近年には、先奏から漢、魏、晋にかけての真跡資料が大量に発見され、現在学書の対象としてさかんに取り上げられます。
これらは古くはあっても後代の評価を得たものではないので、厳密には古典と呼ぶことはできません。
ただこれらによって古典や能書が生まれる状況を探ることができ、習う意義は十分にあると言えるでしょう。

一方で、近代の文学者や政治家など、書の専門家ではなくても、魅力的な筆跡をとどめた人は少なからず存在します。
これらも従来の見方では古典と称することはできませんが、習われたり製作の参考にされることが多くなっています。

学書や製作の多様化にともなって、臨書は枠組みは拡大し続けていると言えます。
臨書とは「習い手にとって何らか価値のあるものを、その意図に沿って習うこと」と大きくとらえたほうが実態に見合っているかもしれません。


臨書の歴史

唐の太宗の「私が古人の書を臨書とするときは、特に形勢を学ばない。ただ骨力をのみ求めるのである」という発言は、最も早い臨書ということばの例と言えるでしょう。

ただ用語が定着することと、実態が存在することはより早くから行われていました。
記録によれば王羲之も後漢の張芝や魏の鍾繇を意識して書法に磨きをかけましたし、その張芝も、崔瑗らとともに、すでに同時代において格別の能書として地位を得て、多くの追随者を生んでいたと言います。

では、習う対象が明確でないときはいったいどうしていたのでしょうか。
張芝には著名な臨池の故事があります。
習練明け暮れた結果、池の水が真っ黒になってしまった、というものです。
何のための猛練習だったのでしょうか。
崔瑗らが先行する能書はありましたが、その模倣を試みるというより、さらに踏み込んで
1つの規範を探ろうとしたのではないでしょうか。
この営みが集約されるかたちで時代や地域の典型がつくられたことでしょう。


さらに、今日多量に目にするようになった漢代の簡とく類の中には、草書や隷書を反復練習した習書簡と呼ばれるものが相当数見られます。
時の規範に従おうとしたのものでしょう。
近年には、殷代の甲骨文の中に習刻片の存在が報告されています。
原初から規範を探る、あるいはそれを習おうとする行為が存在したことを示しています。
したがって臨書を書美や書法を探るために習う、というところまで広げて考えれば、臨書は「始めから」ある、と言えるでしょう。

臨書の発展ですが、唐代になると、王羲之を中心に名跡がテキスト化され、臨書への考察も深まりを見せます。
名筆に倣いしたがうというより、次第に対象に向き合う書き手の意思が重視されるようになっていくのです。

北宗にいたるち「思索の書」が重んじられるようになります。
欧陽脩は一家の体をなすために、「某の意を得て某の形を忘れる」という学び方が大切で、歴代名家はみな「書中に法を得て、後に自ら某の体を変じている」としました。

中国では、現在でも臨書において解釈を重視することに変わりはなく、教育の場でも古典に向き合う素養の形成が不可欠とされます。


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