短歌を作るコツを解説


短歌を作るコツに関するどの入門書にも必ずといっていいほど書かれている言葉が単純化です。


単純化の行われた歌は一読して曲が無さ過ぎるやうにもおもふがよく味ふと却つて複雑な気持ちの出てくるものが多い(斉藤茂吉「短歌初入門」)


茂吉の「短歌初学門」は生前には単行本とはならず、斉藤茂基吉全集が刊行されるに際して、弟子によってまとめられた一冊ですが、「単純化」については、他の本のなかでも繰り返し述べており、作歌のなかで重要なことと考えていたことがわかります。

茂吉は同じ文章のなかで、
「短歌と単純化の問題はもつと根源に行くべきであり、加茂真淵が『その心多なりといふも、直くひたぶるなるものは詞多からず』といつてゐるのは短歌単純化の根源を喝破して何とも云へぬ味ひがある」と言っています。



山の夜気廊に流れ来て友だちと騒ぎゐし児らも今は寝ねたり


これは木俣修の「短歌実作指導教室」に収められた「添削教室」という章から引いたものです。
そのなかでも「内容を単純化すること」と題した一連のなかに、引用されています。
一応はこれでできていると思われますが、木俣修も指摘しているように、ちょっと内容が多すぎてごたごたした印象はぬぐいきれません。
木俣は「友だちと」が余分だと言っています。
「騒ぎゐし」だけで友だち同士で騒いでいたことは十分わかるというわけです。
木俣はこの一首を「山の夜気廊に流れ来て騒ぎゐし児童らも今は眠りに入りぬ」と添削しています。

もちろん添削は絶対ではありません。
しかし、木俣の言いたかったところはよく理解できます。
「友だちと」という情景は、確かに作者が見たものであり、言っておきたかったことはわかるのですが、「山の夜気」があり、「騒ぎゐし」情景があり、そして「寝ねたり」という現在の状態をつぎつぎと描写されると、どうにもうるさいと思わざるを得ません。
要は、見たもののなかで、どれが省略できないか、言ってもいいけれど、言わなくても読者が補って読んでくれるものはどれかということを、推敲の過程で考えてみることが大切だということでしょう。



冬の日の淡くさじ入る鐘楼に青くさびたる鐘重く乗る


今度は土屋文明の「新短歌入門」からです。
新聞歌壇の評を集めたなかにこの一首があります。
土屋文明はこの一首における表現のくどさを、「淡く」「青く」「重く」の3つの副詞句に起因すると言っています。
投稿歌の選をしていると、よく目にする欠点です。
「作者は、忠実に、丁寧にあらわすつもりであったことは、十分理解できるのであるが、結果としてはうるさくなり、一首の感銘をこわすことになった」という文明の評は誰もが納得できるところでしょう。
ところが、それが傍目八目で、実際に自分が作ってみると、得てしてこんな風になってしまうことが多いものです。


言葉を選び、単純化を心がけること、どれだけ多く言うかではなく、どれだけ省略できるか、省けない重点は何かを見定めよ


文明は単純化についてこんな風に言っています。
まことに明快な指摘ですが、こういう欠点に陥りいりやすい原因は作者が読者に「わかってもらいたい」といいう気持ちが強すぎることに原因があると思います。
つまり読者を信頼できなくて、自分が十分すぎるほどに説明しておかなければわかってくれないという思い込みのために起こることではないでしょうか。

このような読者への不信、あるいは信頼感の欠如は、往々にして結句における言い過ぎ、結句で感想を言ってしまうという傾向としてあらわれます。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です