禅語の般若って何?無心の意味とともに解説


般若とは、梵語のプラジュニャー(prajna)巴利語のパンニャー(Panna)を音訳して、波若・鉢若・般羅若といい、意訳して慧・智慧あるいは明ともいいます。
なお、清浄・遠離とも訳されています。
つまり、「般若」とは、「仏の智慧」・「悟りの智慧」を指します。
これは、心の作用であって、煩悩妄想を取り除く智慧・霊智で、諸仏の師とも母ともされ、仏果を得るための最も重要な契機とされています。

一般によく読まれている般若心経ですが、これは、般若の智慧によって宇宙万物の真実相を観察し、総て「空」であるとして、「菩提」の彼岸に至ることを説いています。
彼岸とは、迷いの世界を此岸というのに対して、悟りの世界をいい、この解脱の悟界に至ることを到彼岸といいます。

般若会とは、大般若会ともいい、主として、家国鎮護・除災招福を祈禱するために、「大般若経」を転読する法会で、禅家の年中行事とされていて、正月三が日に営まれます。

般若16善神は、般若守護十六善神ともいい、略して十六善神といいますが、主として、「大般若経:を守護する善神で、中心本尊は釈迦仏です。
この十六善神は、般若会の時にまつることになっています。


般若三昧とは、般若の正智に住することで、一切の執着から脱して、正しく事物を観想する境地です。
三昧とは、心を1つの所に専注することで、精神統一です。

般若の船とは、般若の智慧を、生死の大海を渡って菩提の彼岸に至る船にたとえたものです。

般若行人とは、真実の智慧を実践する人をいいます。

般若湯とは、智水のことであって、禅門では酒のことをいい、比丘は不飲酒戒を守らなければならないから、酒を般若湯と名づけてひそかに用います。

般若は「仏の智慧」「悟りの智慧」ですが、普通にいう常識的な知恵ではなく、相対的・差別的なものを、ことごとく空じ尽くしたところの宗教的霊智なのです。
この智慧は、論理の世界を越えた、言慮不及の純粋智であり絶対智ですから、学問によって得られるものではなくて、宗教的経験によって初めて体得されるものです。
「碧巌録」には、般若を説明して、

「無説無聞是れ真の般若」

とありますが、般若は言語を絶した霊智ですから、口で説くことも、耳で聞くこともできないのです。
それで、この霊智を体得するには、宗教的経験によって自践自得、冷暖自知しなければならないのです。


無心とは何か

無心とは、心無しということではなく、心の存在を認めるのですが、総ての心意識の作用を消滅させた状態です。
心に一物も止めないのを「無心の心」といいます。
無心は、客観的対象によって起こる観念が、全く無くなった状態ですから、これを「無想」ともいい、あるいは、自我の執著から離れることでもありますから、これを「無我」ともいいます。
それで、無心は、無念・無想・無我と同義語といえます。
つまり、無心とは、何ものも求めるところがなく、得るところがなく、無所住といって、物に心を留めて執着することなく、何ものにも束縛されない自由無碍な心境をいいます。

沢庵禅師は無心について、

「無心の心と申すは、本心と同じ事にて、固より定まりたる事なく、分別も思案も何も無き時の心、総身に広がりて、全体に行き渡る心を無心と申す也。留まれば心に物があり、留まるところなければ、心に何も無し、心に何もなきを無心の心と申し、又は無心無念と申候。

と述べています。
無心は、そのように、何物も求めたり得たりするところがないので、中国唐代の高僧で、臨済禅師は、「無心は一切心なきなり」といっています。


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